ある整形外科医のつぶやき

外来の診察室で思うこと

神奈川沖浪裏

 

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この中国のツイッターへの投稿は記憶に新しいところですが、大切な日本の文化を対日批判に利用する中国政府高官の姿勢に、筆者などは大いに憤慨しました。

しかし日本国内では、不思議にも反発はあまり広がらなかったようです。

それは恐らく中国の歴史において、王朝や政権が変わるたびにそれ以前の芸術が破壊されてきたことを、日本人がよく知っているからだと思います。

例えば、一説には二千万人が殺され、共食いも特定の地域で発生したといわれる文化大革命では、旧文化の破壊がもっぱら行われました。

紅衛兵らは旧思想・旧文化の破棄をスローガンとしました。そのため、中国最古の仏教寺院である洛陽郊外の白馬寺の一部が破壊されたり、明王朝皇帝の万暦帝の墳墓(定陵、1956年〜1957年発掘)で批判会が開かれ保存されていた万暦帝とその皇后・皇妃の亡骸がガソリンをかけられ焼却されたりしました。
陶磁器や金魚や月餅など、古い歴史を持つ商品の生産や販売まで「旧文化」とされ、職人や関係者は帝国主義者として吊るし上げられました。芸術性よりも実用性が重視され、景徳鎮の窯や浙江省の養魚場は破壊されました。(一方で毛沢東などの指導者層は景徳鎮産の陶磁器を愛用したといわれています。)
博物館の館員や美術店の店員は、文化財を破壊活動から守るために、文化財に毛沢東の肖像画や語録を貼り付けて回ったといいます。そうすることで、紅衛兵も破壊活動に出られなくなったということです。(1)

 

このような中国ですから、平気で他国の大切な芸術品を貶められるのだと思います。

 

話を葛飾北斎と富岳三十六景に戻しましょう。

葛飾北斎は、宝暦10年 1760年10月31日 武蔵国葛飾郡本所割下水(江戸・本所割下水。現・東京都墨田区の一角。)にて生を受けます。姓は川村氏、幼名は時太郎(ときたろう)。
明和元年(1764年) 幕府御用達鏡磨師であった中島伊勢の養子となりましたが、のち、実子に家督を譲り、家を出ました。その後、貸本屋の丁稚、木版彫刻師の従弟(とてい)となって労苦を重ね、実家へ戻り、この時、貸本の絵に関心を持ち、画道を志しました。
代表作に『冨嶽三十六景』や『北斎漫画』があり、ご存じのように世界的にも著名な画家です。森羅万象を描き、生涯に3万点を超える作品を発表しました。若い時から意欲的であり、版画のほか、肉筆浮世絵にも彼の卓越した描写力を見ることができます。さらに、読本(よみほん)・挿絵芸術に新機軸を見出したことや、『北斎漫画』を始めとする絵本を多数発表しました。
門人の数は極めて多く、孫弟子も含めて200人に近いといわれます。(2)

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神奈川沖浪裏(かながわおきなみうら)は、葛飾北斎の名所浮世絵揃物『富嶽三十六景』全46図中の1図。
この錦絵は、大波、3隻の船、背景の富士山、と3つの要素で構成されています。
絵の内には大波に揉まれる3艘の船が描かれていて、この船は当時活魚輸送などに使われた押送船です。

北斎の富岳三十六景には、房総から見たとされる富士の景色が三枚見られます。「神奈川県沖浪裏」、「登戸浦(のぼとのうら)」、「上總ノ海路(かずさのかいじ)」です。

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ここで興味深い話があります。
葛飾北斎の傑作『神奈川沖浪裏』にそっくりな作品が、北斎より先に作られていました。

 

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これ、実は行元寺(ぎょうがんじ。千葉県いすみ市)の欄間(らんま)の一部。木彫りでこれだけの迫力や微細なニュアンスを表現したのは、武志伊八郎信由(たけし いはちろう のぶよし)。別名「波の伊八」と呼ばれた彫工(彫刻師)です。作品名は『浪に漂う宝珠(ほうじゅ。ほうしゅ、とも)の図』。

 

伊八がこの作品を彫ったのは、“浪裏”が描かれる20年以上前のことなのです!
「波の伊八」は1752(宝暦2)年(1751年と記す資料も)、現在の千葉県鴨川市で生まれました。
伊八が生まれたのは、代々、地元で名主を務める家柄で、平安時代まで家系をたどることができる一族だったという説もあります。幼い頃から手先が器用だった伊八は、彫刻師島村流の島村丈右衛門貞亮(さだすけ)の弟子となり、腕を磨きました。
島村流は、日光東照宮の「眠り猫」などで知られる江戸時代初期の名工、左甚五郎の流れをくむ彫工界のエリート集団です。

『浪に漂う宝珠の図』が作られてから約22年後、1831(天保2)年頃に制作されたとされる葛飾北斎の『神奈川沖浪裏』。はたして北斎は「波の伊八」の作品を目にしていたのでしょうか?
結論から言うと、それを証拠づける資料はありません。二人が出会っていたという資料も残されていません。

しかし北斎は日蓮を深く尊崇していて、日蓮が誕生し日蓮宗の霊場が点在する鴨川を巡ったのではないかと考えられます。
しばしば千葉県を訪ねていた北斎が、「波の伊八」の作品を目にしたとしても不思議ではありません。(3)

 

素晴らしい芸術遺産である葛飾北斎の錦絵とそれにインスピレーションを与えたと考えられる「波の伊八」の『浪に漂う宝珠の図』。日本人は過去の文化を大切にする民族です。お隣の国の人たちには全く理解ができないことでしょう。

 

 

参考文献

1)文化大革命 ウィキペディア(Wikipedia)

2)葛飾北斎 ウィキペディア(Wikipedia)

3)https://intojapanwaraku.com/art/154895/  葛飾北斎の傑作『神奈川沖浪裏』にそっくりな作品が、北斎より先に作られていた!彫刻師・波の伊八の謎に迫る  時田慎也