ある整形外科医のつぶやき

外来の診察室で思うこと

肥沼信次 先生

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秋が深まり、冬の訪れの気配を感じ始める今日この頃ですが、皆さんは如何がお過ごしでしょうか。

ブログを始めてまだ3か月の新参者ですが、人生においては熟練の猛者と申し上げてもいいかなと思います。

人生のこの時期にブログを始めてみて思うのは、ブログを書くこと自体が非常に面白いし、記事の構想を練ったり、サイトの実装を工夫したり、見てくれがきれいになるとすごく楽しくなります。

ほかのブロガーは、アフィリエイトに夢中になっているように見えますし、最近気がついたのは、はてなブログでほかのブロガーさんの記事を拝見している時はほとんどないのですが、ブログ村でマウスを動かしている時に度々突然コマーシャルページに飛ばされて、ゆっくりホームページや記事を読んでいる余裕がないほどです。

私はブログ歴が浅いのでこれに関してお分かりの方は教えていただければと思います。(実は、後になって分かりました。)

adsense の承認を受けにくいとかブログ村での記事更新がスムーズにいかないとか様々な問題はあっても、ゆっくりほかの方の記事が読める「はてなブログ」さんは、私にとってすごく大切なブログサイトになっています。

 

今回は皆さんに一人のお医者さんをご紹介したいと思います。

ご存じの方もおられるかと思いますが、

 お名前は、肥沼信次 先生です。

 1908年東京八王子で開業していた外科医の次男として生まれ、その後日本医科大学から東京帝国大学放射線研究室へと進み、1937年国費留学生としてドイツに渡りベルリン大学放射線研究室の客員研究員となりました。

そして、1944年にはベルリン大学医学部で東洋人初の教授となりました。

ベルリン陥落直前、在留邦人のための帰国船には乗らずベルリンから東北に45kmの町エーベルスバルデに避難。その後第二次世界大戦後ドイツ占領ソ連軍が創設したのヴリーツェンの伝染病医療センターの所長となりドイツ人医師不在となった同地でチフス・コレラなどの治療にあたりました。

 

しかし自身もチフスに罹患し 、1946年3月8日、37歳で死去しました。

 1992年にはヴリーツェン市は肥沼に名誉市民の称号を与え、1994年、同市で記念式典が開かれ、伝染病医療センターのあった 市庁舎前に大理石の記念銘板が設置されました。

死の間際に信次が「桜が見たい」と言い残したという看護婦の言葉を受け、弟の栄治さんが100本の桜の苗木を同市に贈ったということです。

この実話は何度聞いても、涙が出てきます。

 


 前稿の「医の倫理」でもお話しましたように、医者としての職業倫理の核心的価値である

① 利益相反があった場合は、常に患者側に立つ

② 自律性を持って自らの行為を自ら決める

を相当の覚悟を持って決断・実践した結果、お気の毒にも命を落とされたものと思います。

 

終戦直後の混乱したベルリンにあって、肥沼自身祖国に帰れるにも関わらず、それを断念してまで留学先の国民のために命懸けで医療に専念する決心をした時の気持ちは、なんとなく私にもわかるような気がしますし、その時の決断の理由はまさに「医の倫理」が大きく関わっていたものと推察します。

 

現在の日本を見てみますと、COVID-19第3波が猛威をふるい始め、医療崩壊直前の医療機関において決死の覚悟で仕事にあたる医療従事者は「医の倫理」を体現している方々だと思います。

その人たちにも親兄弟がおり、守らなければいけない子供たちがいます。

中には、赤ちゃんが生まれたばかりの若い医師もいることでしょう。

我々ができることは、自粛疲れなどと呑気なことは言わず、引き続き感染防御のマスク着用・3密回避など忍耐力を持って実行し続けることと、実効性のある政策を政権に求め続けることなのだと強く思います。